ブラタモリ#139「京都・西陣~織物の町・西陣はどうできた?~」
2019年7月13日(土)放送の『ブラタモリ』は京都・西陣が舞台。
応仁の乱によって西陣織生まれた歴史や現在の西陣が発展した地形的な背景と当時の織物技術の変遷をタモさん&林田アナが解き明かします。
ブラタモリ#139「京都・西陣」番組データ
【放送日時】 2019年7月13日(土曜日)19:30~20:15
【放送局】 NHK総合テレビ
【番組タイトル】 ブラタモリ「京都・西陣~織物の町・西陣はどうできた?~」
【ロケ地】 京都府
【出演者】 タモリ 林田理沙(アナウンサー)
【語り】 草彅剛
【京都・西陣で #ブラタモリ 】
— NHK広報局 (@NHK_PR) July 12, 2019
主なキーワードは…。
・機織り職人
・応仁の乱
・江戸時代のセレブ
・遷都で訪れた大ピンチ! ほか。
応仁の乱の痕跡を探して、タモリさんお気に入りの街を歩くのであります。
13(土)夜7:30[総合]https://t.co/IFPw4f4Up1
本隆寺近くの通りからロケスタート!
本隆寺近くの通りを歩くタモリさんと林田アナ。タモリさんはこの通りを何度も通ったそうで馴染みの蕎麦屋が近くにあるといいます。
今回のテーマ「織物の町・西陣はどうできた?」
今回のテーマは「織物の町・西陣はどうできた?」です。タモリさんも「なんでここに織物の一大産地が出来たのかはわかんねぇな」と疑問の様子。
今回の案内人一人目は、生まれも育ちも西陣の鳥井光広さん(観光ガイド)。伝統的な西陣織は最高級織物として近年では……
- 平成5年(1993年)6月「結婚の儀」で皇后・雅子様がお召になっていた十二単
- 東京赤坂迎賓館赤坂離宮「花鳥の間」の内装
……などで有名です。また舞妓さんのだらりの帯や能など伝統芸能の衣装にも使われています。織り方も様々で歴史が長く「緯錦(ぬきにしき)=紀元前200年頃の中国がルーツ」や「ビロード=織田信長が好きだった織り方でポルトガルから伝来」など世界中の織り技術が一同に集まっています。
つまり西陣織とは「西陣織」という織り方があるのではなく、西陣で織られた布の総称をいいます。
西陣織の織り子さん「森紗恵子さん」に実演してもらう
ここで紹介されたのが西陣織の織り子、森紗恵子さんです。森さんは現役の織り子さんでつづれ織りのひとつ「爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)」を主に制作されているそうです。
縦糸と横糸、そして体の一部である爪のギザギザをも駆使して模様を積み上げて織ってゆきます。最も手間がかかり1日5cmくらい薦めるのがやっとだといいます。
西陣織は非常に細かい20以上の工程に分かれていてそれぞれ熟練の職人が居て一反の織物が作られているのです。
「西陣」の地名は応仁の乱が始まりだった?
二人目の案内人は、ブラタモリでおなじみの京都高低差崖会、崖長の梅林秀行さんが担当しました。
梅林さんはブラタモリ8回目の登場。京都の街歩きガイドです。
西陣の地名は「応仁の乱」の西の方の陣地があった場所だったことから由来しています。
応仁の乱は室町時代後期に京都を東軍と西軍に二分し市内全土を焼け野原にした戦のこと。東軍は細川勝元、西軍は山名宗全です。
東軍と西軍を分けた小川の痕跡をたどる
「上杉本洛中洛外図屏風」は応仁の乱の当時の街の様子を極めて正確に描いた屏風絵です。この屏風絵にある幅数メートルの小さな川が東軍と西軍を分けた境界線だといいます。
狩野永徳 国宝「上杉本洛中洛外図屏風」が記念切手に! https://t.co/ANSzc9ycRh 2016年4月20日発売です。 pic.twitter.com/Revdp0xIBz
— Tak(たけ) @『いちばんやさしい美術鑑賞』 (@taktwi) February 25, 2016
タモリさん&林田アナが今も残る川の痕跡を訪ねました。川は昭和30年台に暗渠化されていますが、現在は欄干が残っていました。
欄干のそばには東軍の大将、細川勝元の本陣屋敷がありました。またその先の「百々橋」には今も礎石(橋の橋脚をはめ込む石の台)がありました。
この百々橋の礎石ある場所が応仁の乱の激戦地だったそうです。道々橋の近くには西軍の本陣、山名宗全の自宅もありました。
実は応仁の乱の発端は百々橋のかかる小川を挟んだご近所同士の相続争いでした。そのためこの場所にはお屋敷があるだけで戦争の要塞となるような巨大なお城もありません。
ご近所の揉め事に巻き込まれ京都の半分を焼き尽くした頃「俺達は一体誰のために戦っているんだ?」という気持ちになり勝ち負けもなく終戦したといいます。「ほんとに変な戦だよね!」とタモリさん。
西陣の織物技術は「大阪の堺」から伝来した?
応仁の乱により京都から多くの住民は避難しました。その一部は当時大発展していた大阪の堺で織物技術を学び、戦が終わった西陣で織物を始めたのです。
タモリさんの大好きなお蕎麦屋さんと魚屋のコロッケがある鞍馬口通(くらまぐちどおり)を歩きます。鞍馬口通を進むと船岡山を発見。頂上に登ると露頭がありその周りには鎌倉時代のお墓もありました。
船岡山をあの世の入り口と考えていた京都・西陣の人々は、反映と拡大を続けあの世の入り口まで西陣エリアを拡大させました。
『ブラタモリ・西陣編』応仁の乱で西軍の本陣があったことから西陣と呼ばれる。北の船岡山はあの世の入口で、その間は室町時代までは手つかずだったが、西陣の発展により街が広がった。番組でも使われたカシミール3Dスーパー地形セット+地理院地図。傾斜がわかる枯山水色分け使用。#ブラタモリ pic.twitter.com/rD452CyhHA
— DAN杉本 (@DANkashmir3d) July 13, 2019
江戸時代…西陣の本格的な発展の痕跡を探る!
応仁の乱が終わり、江戸時代になると西陣織は大繁栄しました。
今も残る「千両ヶ辻(せんりょうがつじ)」では1日あたり千両(今の価値で6千万円あまり)儲かったという伝説があります。
通りには今も軒が連なった建物が残っていて、江戸時代中期から280年も続く帯問屋の十代目木村正也さん訪ねました。木村さん宅には皇室の菊の御紋、徳川家の家紋三つ葉葵の帯文様などが残されています。
しかしその後徳川幕府は明治維新により大政奉還、明治時代になり天皇陛下が東京へ行ってしまうと大口のお客様が居なくなり減収を余儀なくされました。
西陣織の大ピンチを救ったのはフランスの「ジャカード織」
とにかく手間と時間、お金のかかる西陣織。一般の人には手の届かない商品です。
そこで西陣織はフランスから最新自動織り機「ジャカード織」を導入。
パンチカードによる自動制御によって織り機を半自動化しました。この技術の導入により品質を変えずに手間と時間を4倍にアップ!一般の人でも西陣織を手に入れるようになり明治35年頃から西陣織の経営は復活したそうです。
西陣の町家は急増した職人たちで溢れかえり活気を取り戻しました。
普通のシャツの上に着物を合わせる。いいんだよねこういう着方で。普段着の着物はもっと自由でいい。 #ブラタモリ pic.twitter.com/7mpDPJtX0F
— 酒上小琴【サケノウエノコゴト】 (@raizou5th) July 13, 2019
2019年7月13日(土曜日)放送『ブラタモリ「京都・西陣~織物の町・西陣はどうできた?~」』より
『ブラタモリ』放送終了後の反響ツイートは?
地元の商店街歩いてたらタモさんと鶴瓶に遭遇するという奇跡!
— ⓂⒶⓎ②④ (@MAY24touch) 2019年7月13日
しかもブラタモリ今夜!!#ブラタモリ#京都 pic.twitter.com/WCBZfZUXzu
ブラタモリが見えにゃい
— 𝙖𝙮𝙪 (@ayu31034617) 2019年7月13日
京都西陣 pic.twitter.com/uh7ECA35ik
今回のブラタモリ「京都・西陣編」で活用したデジタル資料その2。「平安京オーバレイマップ」https://t.co/U71461bcwT 京都の古代・中世・近世・近代について各時代の歴史情報が総覧できてしまう。発掘調査報告書のリンクもマッピングされていて非常に重宝します。#ブラタモリ #平安京オーバレイマップ pic.twitter.com/lumrbeFFZe
— 梅林秀行 (@chang_ume) 2019年7月13日
次回の『ブラタモリ』は…釧路湿原
次回のブラタモリは釧路湿原。7月20日(土曜)よる7時30分放送予定。