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【反響要約】ブラタモリ「#107 伊豆・下田」ペリー来航!なぜ下田は開国の地になったのか!?【2018年6月2日(土曜日)放送内容まとめ】


ブラタモリ「#107 伊豆・下田」

2018年6月2日(土曜日)放送の『ブラタモリ』は、伊豆・下田が舞台です。

1854年にペリー来航によって開港の地に選ばれた伊豆・下田。一体なぜ下田が選ばれたのでしょうか?その理由をタモリさん&林田理沙アナがブラブラ歩いて解き明かします!

ブラタモリ「#107伊豆・下田」番組データ

【放送日時】 2018年6月2日(土曜日)19:30~20:15
【放送局】 NHK総合テレビ
【番組タイトル】 ブラタモリ「#107 伊豆・下田」
【ロケ地】 静岡県下田市
【出演者】 タモリ 林田理沙(NHKアナウンサー)
【語り】 草彅剛
【テーマ曲】 井上陽水

今回のブラタモリは伊豆半島下田からロケスタート!

下田は、太平洋に突き出た伊豆半島の先端にあります。

年間290万人の観光客が訪れ、情緒あふれる古い町並みを求めてやってくると言います。

タモリさん、林田理沙アナの後ろに停泊しているのは黒船を模した遊覧観光船。

下田と言えばなんと言ってもペリー来航(1854年)で有名な開国の地です。

なぜ下田は”開国の地”になった!?

今回の旅のテーマは「なぜ下田は”開国の地”になった!?」です。

いつも旅のテーマを予想しているタモリさん、今まで当てることが出来ませんでしたが今回はズバリ言い当てることに成功!

案内人を担当するのは、生まれも育ちも下田の近持孝一さん(郷土史家)です。

何故下田が開国の地となったのか?そのカギを握るのはやはり、アメリカ海軍提督「マシュー・ペリー(1794~1858)」だと近持さん。

当時の日本人が描いたペリー提督の自画像「北亜墨利加大合衆国 水師提督ペルリ之肖像(神奈川県立歴史博物館)」を紹介しました。

その顔はまるで鬼のようで、襟にはなぜかラーメンどんぶりの模様のような物が描かれています。実はこの怖い肖像画は全くの想像で描かれた絵でした…。

なぜ下田が開国の地に選ばれたのか?

なぜ下田が開国の地に選ばれたのでしょうか…?

実は1853年、ペリーが最初にやってきたのは、下田ではなく浦賀(横浜)です。

ペリーはまず浦賀で江戸幕府に開国を迫り、「1年後にまた来る!」と言い残して帰って行きました…。

そして1年経った1854年、再びペリーは来航し「日米和親条約」を締結しました。これによって下田がすぐに開港され、北海道の函館(箱館)も翌年(1855年)に開港されています。

条約の調印からわずか3週間後、ペリーの上陸した下田が「日本開国の地」となったのでした――。

ただし、もともとペリーが開国地として日本に要求した場所に下田は含まれませんでした。(ペリーは浦賀や神奈川、鹿児島、松前、那覇などを候補としていました)

その理由として幕府はペリー率いる黒船艦隊をなるべく江戸に近づけたくなかったのです…。

かつて有名な繁華街だった「下田港」へ移動――

タモリさん&林田アナ一行は、町の中心部である下田港のエリアへ移動。

下田は開国する前から町の中心は港にありました。

付近にはとても立派な「ナマコ壁(海鼠壁)」の廻船問屋が並んでいます。なまこ壁の厚く盛り上がった漆喰(しっくい)は羽振りの良いお金持ちの証拠なのです。

ペリーがやってきた1840年当時の下田は既に繁華街として有名でした。

当時の日本各地の繁華街を記した番付表「大日本国々繁花見立相撲(三井文庫)」には、行司役として「伊豆・下田」がランクインしています。(この番付表によれば、浦賀も行司役で同格でした)

ちなみに最高位の大関には「大阪(摂州大阪)」と「京都(山城京)」がひときわ大きな文字で記されていました。

ペリー艦隊の記録「ペリー日本遠征記」にも当時の下田がとても繁盛していたと書かれ、燃料や食料の調達がとてもスムーズだったといいます。

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

 

下田の賑わいの理由は「海の関所」にあり?

江戸時代には日本初の海上の往来を監視する”海の関所”がここ下田に開かれました。

下田御番所」は江戸幕府直轄の船の監視所です。

江戸に入る船は全て必ずこの「下田御番所」に立ち寄り、積み荷をチェック。江戸に不審な物が入ってこないか厳しく調べられました。

その船が往来する賑わいを当時の人々は「出船入り船3000艘」(でふねいりふねさんぜんそう)と呼ぶほど…。こうした出入りの多さが下田に繁栄を呼んだのです。

現在海の関所の痕跡は、病院の跡地となっています。

そしてこの跡地の道に登場したのは「下田八幡神社例大祭」のおみこし。今回はブラタモリのために地元の有志の方々が集まって、威勢の良い神輿担ぎを見せてくれました。

祭りの主役である神輿は、下田に来たその場に居る人誰でも担ぐことが出来、飛び入り参加OKのお祭りでした。

つまり、日本中から人が集まる海の関所のおかげで、ペリーのような外国人でも分け隔てなく受け入れられる…という下田の人々の気質が生まれたと言います。

「ペリーロード」で下田の人々とペリーとの関係を探る

タモリさん一行はペリー艦隊が行進したというペリーロードへ。

ここは、柳と川が特徴的な色町だった場所でした。

その先には、ペリー艦隊の受け入れ先となった「了仙寺(りょうせんじ)」ここは、1635年下田奉行が創建した場所です。ペリー艦隊は霊仙寺におよそ2ヶ月間滞在していました。

了仙寺の住職、松井大英さんが案内しました。

ペリー艦隊が使っていた本堂や、当時の生活の様子を描いた巻物が残っています。

巻物には一緒に餅つきをしたり、漁をしたり、自由にしていた様子が描かれていました。

ここでも外から入ってきた色んな人と分け隔て無く受け入れる下田の人々の気質がわかります。

須崎半島(すざきはんとう)の先端へ移動

ここにペリーが気に入った物があるといいます。

それは「凝灰岩質砂岩(ぎょうかいがんしつさがん)」。

凝灰岩は、火山灰が固まって出来た岩のことです。伊豆の場合は海底火山から吹き出した火山灰が海底で積もって出来ます。

この付近の凝灰岩は「伊豆石」といわれ美しい縞模様が特徴です。

帰国したペリーへの贈り物として「伊豆石」は本国に持ち帰られ、アメリカ・ワシントン記念塔(1884年完成・高さ約170m)の一部(220段目)に使われているといいます。

 ――ここからの案内は、ブラタモリではおなじみ伊豆半島ジオパークの鈴木雄介さんです。

タモリさん達は恵比須島の展望台へ。ここからは伊豆大島、利島、新島、神津島など伊豆諸島の島々が一望できます。

この付近は海の難所として有名で下田沖には世界一の黒潮が流れています。しかもあちこちに岩礁があり、ぶつかれば命はありません…。

また伊豆半島の沖合には、4000メートル級の海底火山が2000km以上も貫く大海底火山地帯です。

そのため黒潮の行く手を遮り、潮の流れは複雑に蛇行します。下田はこの難所を通過する船の最適な避難場所だったのです――。

 

(※2018年6月2日(土)放送「ブラタモリ「#107 伊豆・下田」」より)

『ブラタモリ』放送終了後の反響ツイートは?

https://twitter.com/ynkpa_iecnho/status/1003128906856087552

前回の『ブラタモリ』は「山口県萩市」

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次回の『ブラタモリ』は「」

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