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【反響要約】NHKスペシャル「駅の子の闘い…語り始めた戦争孤児」終戦直後”人の冷たさ”を一身に受けた小さな子ども達の過酷な体験とは?【2018年8月12日(日曜日)NHK総合21:00~】

Nスペ「駅の子の闘い・戦争孤児の戦後」

 2018年8月12日(日曜日)放送の『NHKスペシャル』は、「駅の子の闘い~語り始めた戦争孤児~」

 昭和20年8月…戦争が終結しました――。軍人や民間人など合わせて310万の人々が亡くなった未曾有の悲劇です…。終戦直後の日本は大混乱となり、ここからひっそりと本当の闘いが始まった子ども達が居ました。「駅の子」…空襲などで突然親を失い、路上で生きざるを得なくなった「戦争孤児」たちです――。

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『NHKスペシャル 駅の子の闘い』番組データ

【放送日時(初)】 2018年8月12日(日曜日)21:00~21:50
【再放送】 2018年8月30日(木曜日)午前1時~(29日深夜)
【放送局】 NHK総合テレビ
【番組タイトル】 NHKスペシャル「”駅の子”の闘い~語り始めた戦争孤児~」
【語り】 柴田祐規子 井上二郎

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空襲によって突然親を失った「戦争孤児」たち…

 15歳の時、空襲で親を失った88歳の女性(金子トミさん)…寝泊まりしたのは上野駅の構内だといいます。当時座ったであろう場所に座る女性、あの時周りには同じように行き場のない子ども達がたくさん座り込んでいた事を思い出します…。

 やがて人々はこうした子ども達を「駅の子」と呼ぶように…。

 金子さんは亡くなった夫には最後まで上野駅で路上生活をしていたことは言わなかったといいます。「…こんな女をもらったのかと思われるのが怖かった」…当時の事は全て自分の記憶の中だけに封じ込めました。

 終戦直後の日本。上野駅をはじめ小倉駅、広島駅、神戸(三宮)駅、大阪(梅田)駅…駅のこの姿は全国で目撃されましたが、彼らが当時のことを語ることはなく、その詳しい実態は今も解っていません。NHKスペシャルのスタッフは3年間かけて「駅の子」の実態を追いました――。

戦争孤児―「駅の子」たちの思い

戦争孤児―「駅の子」たちの思い

 

東京上野駅で「駅の子」に…弟妹は生き別れとなった…

 金子トミさん(88歳)は、15歳の時に山形で空襲に遭い親を失いました。仕事を求め小さな弟と妹を連れて東京へ出てきたのです。

 しかし東京も一面焼け野原…。さまよい歩き上野駅の地下道で寝泊まりすることになりました。上野駅の構内では同じような戦争孤児たちでいっぱいで空いている場所もなかったそうです。

 食べ物もなく病気や飢えで毎日死んでしまう子どもたち…上野にはすでに闇市が出来ていて、お金さえ有れば食べ物に不自由することはありませんでした。しかし子ども達にはお金がありません。当時駅の子たちに声をかける余裕のある大人たちは一切いなかったそうです。

 やがて持っていたお金も底をつき、金子さんは弟と妹の預け先を必死で探しました。自分は住み込みで働く場所を見つけ、やっと仕事にありつけた金子さんでしたが仕事を離れられなくなった金子さんはそれ以来弟妹とも会えなくなってしまいます…。

 その後金子さんは23歳で結婚、二人の子どもを育てました。現在は「国に対して謝罪と補償を求める活動」への寄付をするため、80歳を過ぎて近所で清掃のアルバイトをするようになったとのこと。「駅の子」たちが戦争によってどんな仕打ちを受けなくてはならなくなったのか…今の若い子たちに知って欲しいといいます。

国は機能せず子ども達の保護は後回しに…

 終戦直後、戦争孤児の数は12万人を越えました。当時は子ども達を保護する公的な施設は圧倒的に不足…。

 数少ない公的施設だった「東京都養育院(板橋区)」で働いていた矢島ゑつ子さん(98歳)が当時を証言。小さな子ども達は伝染病で次々と亡くなっていったそうです。この施設だけでその数2700名…。

 国は昭和20年9月に「戦災孤児等保護対策要綱」をまとめ、まずは親戚などが面倒を見るよう定めました。しかし国からの予算は付かず親戚には新たな負担が増えたと考える人は多かったのです…。戦争前は「お兄ちゃん!お姉ちゃん!」とそれは親しく呼び合っていた親戚が今度は顔色を変え「なんでおまえなんかが生まれてきたんだ!なぜ私たちがおまえを育てなきゃならないんだ!」など言われ、そのつらさに親戚を飛び出して「駅の子」になった人も多かったといいます…。

なぜ国は有効な対策を取ることが出来なかったのか…

 当時の厚生省幹部たちは子ども達の保護を後回しにせざるを得ない状況だったといいます…。戦後の混乱で会社はどんどん閉鎖し、失業者であふれかえっている。そのうえ外地からは600万人もの引き揚げ者も帰国――そんな状況で子ども達を保護する余裕は全くなく議題にも上がらなかったといいます…。

 かつて戦時中の戦争孤児たちは「靖国の遺児」と呼ばれ学校や地域でも特別待遇でしたが、負けた途端に一転して国からもやっかい者扱いとなったのでした。

 小学生の時に靖国神社で行われる遺児たちの行事”靖国の対面”に参加した面家敏之さん(85歳)は、「父が何のために戦争で死んだのか解らなくなった…国に裏切られた…。」と語りました…。 

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事態が進んだきっかけはGHQからの命令だった…

 昭和21年の春に占領政策を担っていたGHQ(GHQ公衆衛生福祉局・ネフ課長)が厚生省に対策を求めたのです。

 「とにかく浮浪児は困る…東京から浮浪児が1週間以内に居なくなるようにしなさい…そして子どもを保護する一時保護施設を設置しなさい。」という命令でした。

 自治体は子ども達を駅などから一斉収容(”狩り込み”と呼ばれました)し、一時保護施設に収容。しかし環境は劣悪で食料も不足、体罰や子ども達を檻に入れる所もありました。そのため駅で暮らすほうがましだと脱走を繰り返す子たちも増えたと言います。

「社会の悪者」となってゆく駅の子たち…

 昭和22年、世の中は復興へと進み始めていました。「ダンスホール」「東京六大学野球」「七五三」など日本は徐々に豊かさを取り戻してゆきました。

 しかし駅の子たちだけ取り残され依然垢にまみれ暮らし続けました。子ども達の多くは「物乞い」「窃盗」「スリ」などをしてなんとか生活していたのです。

 犯罪に手を染める子が増える中、当時のマスコミは”治安を乱す存在”として書くようになりました。人々は次第に駅の子たちを「社会の悪者」とみなすようになって行きました…。

 施設に預けられた駅の子たちは学校などでも「犬」「浮浪児」「ばい菌」などと言われイジメに遭い続けました、当時は教師も率先してイジメをしていたそうです。

 そんな世の中でしたから、一生犯罪から足を洗わない駅の子もいました。なかでも熊谷徳久元死刑囚は強盗殺人など悪事を重ね死刑判決を受けついに5年前(2013年)刑が執行されました。

 熊谷徳久元死刑囚を取材した作家の菅野国春さん(83歳)によれば、幼少期に親を亡くし身を寄せた親戚宅は空襲で焼失、路上生活をするようになったといいます。

 熊谷徳久元死刑囚の手記には「自分の経験では犯罪に手を染める者の7~8割は子どもの頃に全く人間らしく育てられていない人ばかりだった…。」と書き残されていました――。

奈落―ピストル強盗殺人犯の手記

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昭和22年11月「児童福祉法」成立~状況は前進した

 終戦から2年後の昭和22年11月、厚生省は「児童福祉法」を成立させました。この法律によって子どもの人数に応じた運営費が児童養護施設に配布されるようになっています。

 当時特に戦争孤児の保護に力を入れていた民間の児童養護施設「愛児の家(あいじのいえ)」は、「性病」や「疥癬(かいせん)=猛烈な痒みを伴う皮膚病のひとつ」などが蔓延する駅の子たちの惨状に胸を痛めた石綿さたよさんが設立。多いときで100人近い子ども達が暮らしていました。

 やがてこうした一時保護施設が全国に増え始め、孤児たちは学校にも通えるようになり、仕事を得て家庭を持ち子を産み育てました。

 番組で登場したかつて駅の子だった方々は、「私たちが受けた戦争の悲惨さ人の冷たさ」を再び繰り返すことのないよう…出来るだけ多くの戦争を知らない若い人たちに届けたい…と話します――。

 

(※2018年8月12日(日曜日)放送『NHKスペシャル「”駅の子”の闘い~語り始めた戦争孤児~」』より)

 

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