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要約「アナザーストーリーズ 映画「男はつらいよ」 寅さん誕生 知られざるドラマ」▽ドラマから映画へ誕生裏話ほか【2016年8月3日(水)放送内容 NHK BS】



アナザーストーリーズ「男はつらいよ」

2016-08-03(水曜日)よる9時放送の「アナザーストーリーズ」は、映画「男はつらいよ」の寅さん誕生秘話。

国民的映画の「男はつらいよ」は、昭和を代表する映画シリーズとなった。しかしその裏では、渥美清と車寅次郎の壮絶な戦いがあった。

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アナザーストーリーズ番組データ

【放送日時】 2016年8月3日(水曜日)よる9時(60分番組)
【放送局】 NHK BSプレミアム
【番組副題】 映画”男はつらいよ”~寅さん誕生 知られざるドラマ~
【ナビゲーター】 真木よう子

渥美清の生い立ちとは?

生まれは東京上野の車坂。本名は、「田所康雄(たどころやすお)」だった。

志村第一尋常小学校に通っていた当時は体が弱く学校を休みがちな生徒だったという。

そんな中で家にあったラジオから流れる、落語や講談に聞き入っていた。

やがて芸事に興味を持ち始め、浅草六区の芝居小屋や映画館に入り浸るようになった。

学校を出て選んだ道は「コメディアン」だった。

浅草の劇場の前座として幕間に立ち喝采を浴びた。評判は評判を呼び、テレビに出演するようになった。

そしてついに、40歳の時に映画「男はつらいよ」の車寅次郎(くるまとらじろう)と出会う。

「男はつらいよ」誕生秘話

1969年8月27日「男はつらいよ」の第1作が封切られた。

その後全48作、お盆や正月には毎年公開されていた。一人の俳優が演じ続けたキャラクターとして「ギネスブック」にも掲載される。

実は映画の前にはTV版「男はつらいよ」の存在があった。

TV版「男はつらいよ」誕生

テレビドラマ版「男はつらいよ」誕生の真相が紹介された。

元フジテレビ編成部の白川文造さんが証言した。白川文造さんは、元フジテレビでプロデューサーとして活躍していた。

「鉄腕アトム」「若者たち」「北の国から」「夜のヒットスタジオ」を手がけている。

おもろい夫婦の続編が男はつらいよだった

フジテレビで当時放送されていた「おもろい夫婦」(主演:渥美清)の続編を作るという話になり「男はつらいよ」の企画がスタートした。

おもろい夫婦は、当時視聴率が30%以上。

視聴率男だった渥美清

フジテレビでは「おもろい夫婦」を続けたかったが、渥美清が「キャラクターが固定されるからもう夫婦役をやりたくない」と続編NGを出してしまう。

プロデューサーたちは慌てた。渥美清がフジテレビに出なくなったら、すぐにTBSなどに引きぬかれてしまうからと泣く泣く「おもろい夫婦」を諦め「男はつらいよ」の企画に変更されたという。

そこで白川さんが考えた新ドラマは……

  • 愚兄賢妹
  • 無法松(報われない男)
  • マドンナ(毎回振られる)

これらを三本柱として企画を進めていった。当時の企画書が残っている。

企画だけは固まったが、毎回上手い脚本を作らないとヒットしないということで、当時新進気鋭だった「山田洋次」を脚本家として迎えた。

白川プロデューサーは、山田洋次(当時36歳)が仕事をしていた旅館を訪れて脚本を依頼したが「仕事がありますから」と会って30分経たないうちに追い返されたという。

しかし次の日も白川さんは諦めず口説き、渥美清と面会してから決めるという話になった。

山田洋次は渥美清という人物に大きく惹かれたようだった。

渥美清と山田洋次の面会

今でも、山田洋次は渥美清と初めて会ったことを鮮明に覚えている。

「なんて記憶力のいい人なんだろう」というのが第一印象だったという。その時は、自分が幼いころ憧れたテキ屋の口上をうわぁ~っと目の前で実演してくれた。

それがきっかけで、主人公はテキ屋に決まった。また名前は渥美清の出身地「車坂」を取って「車 寅次郎」と決定した。

山田洋次は最初に面会したとき、「寅さんは、イコール渥美清なんだ」と思ったという。

渥美清自身がインタビューに答える映像が残っている。

当時(山田監督の)脚本を読んだ時「ぞぉーっと鳥肌が立つような興奮がありました。山田洋次という人に嫉妬を感じた」と語る。

元フジテレビ美術部の山本修身さんは、テキ屋というキャラクターにとても興奮したという。蛇革の雪駄やトランクの中身まで想像して細部を作り上げたと楽しそうに語った。

しかしドラマは散々な結果になった

1968年8月3日よる10時、第1話(45分番組)放送。

しかし、ドラマの視聴率は出ない。スポンサーからは怒られると散々な結果だった。

「ケツの周りは糞だらけ」など言葉がやたらに汚いと批判を受けた。

山田洋次は、言葉をキレイにすれば話がつまらなくなると無視していた。

スポンサーからの意向は無視して脚本を書き続けた山田洋次。すると徐々に視聴率は上昇に転じた。

スタッフたちも乗りに乗り、当時チーフ助監督を務めていた、山本治(やまもといさお・元フジテレビ)さんは、寅さんは死んだほうがドラマが盛り上がると提案した。

当時の山田洋次は、映画の仕事が忙しくテレビの方は26話で終わりにしようと思っていたため助監督の提案通り寅さんを死なせるストーリーしたという。

1968年3月27日最終回で、寅さんは奄美大島でハブに噛まれて死んで終わったのだ。

放送終了後抗議の電話が殺到!

最終回、ハブに噛まれて死んだ寅さん。

放送終了後、そんな終わり方は我慢できない!許せない!と視聴者から抗議の電話が殺到した。

中には、「テメーのとこの(局の)競馬見てやんないぞ!」など過激な抗議もあったという。「よくも俺の寅を殺してくれたな!テレビ局でまってろ!」という電話もあった。

山本治さんは、そんな電話を受けて怖くて早々にテレビ局から逃げ帰ったと当時を振り返って笑う。

山田洋次「反省した」

山田洋次は、当時はその反響を受けて「反省した」という。

車寅次郎というキャラクターをそれほど愛してくれていたんだなと、その時初めて実感したという。

その時、「スクリーンで寅さんをもう一度生き返らせよう!」と閃いた。

そうすれば寅さんを愛してくれたファンたちも許してくれるだろうと思い、松竹で映画化されることになった。

テレビで使った小道具をそのまま映画へ

松竹で映画化される事になった男はつらいよ。渥美清の希望で小道具はテレビで使った物を持ってきて欲しいと懇願した。

しかし、寅さんの衣装はTV版の打ち上げの際にプレゼントの景品になっていたという。残っていた小道具をすべてフジテレビから松竹に貸出(寄贈)した。

1969年「男はつらいよ」公開

倍賞千恵子が演じたサクラが1作目で再会する時に「生きてたの?」と言うシーンは、TV版では死んでいたというエピソードも関係しているのかもしれない。

一番得したのは「松竹」?

元フジテレビの、白川プロデューサーは、一番得したのは松竹じゃないかな?と笑う。何にもしないでお宝が48本出来たわけだからと語った。

だが、本家はフジテレビ版だという気持ちは全く無かったという。成功してよかったと話す。こうして自分たちが立ち上げ作りこんだ作品がのちのち(製作会社は違っても)歴史に残って行ったことに感謝したいと語った。

渥美清「病との闘い」

渥美清は、26歳の時、肺結核で二年間の闘病生活をしている。

梅村三郎さんは、結核の闘病生活を一緒に送った人。

現在80歳になった梅村三郎さんは、当時の療養所の様子などを克明に絵に記した。

当時渥美清は26歳。梅村三郎は19歳だった。

浅草演芸ホール(フランス座)の松倉久幸さんが当時を証言。駆け出し時代の渥美清をよく知っていた。当時は「あんな下駄のような顔をしていて売れるわけない」と思っていたと笑う。

しかし実際はバカ受け。踊り子たちがいつも渥美を取り囲んで大モテだった。

結核に倒れる

絶頂の頃、渥美清は結核に倒れ、埼玉県の結核専門病院、朝倉病院に入院。結核は不治の病だった。社会復帰は難しく、右肺を全摘出している。10人中4人は死亡する手術を受けた。

幸いにも手術は成功、社会復帰を果たした。役者を諦めなかった渥美清は、病院の外気小屋でテキ屋の売り口上などをして舞台練習もしていたという。

退院後性格が変わった

二年後浅草に舞い戻った。退院した渥美清は、性格が穏やかに変わったという。病気をする前は目を釣り上げて怒っていた渥美清が円熟味をまして丸くなっていた。

舞台では、以前よりも人気が出た。踊り子たちも客も渥美清を見るためにみんなが集まってきていた。

その11年後、男はつらいよの寅さんが誕生した。

徐々に体調を崩し始める渥美清

しかし、片肺を失った渥美清は体調を崩していた。第29作の頃から肝臓に異変を覚え撮影中に点滴を打つようになった。

渥美清は病を隠しながら寅さんを演じた。

シリーズ最終「寅次郎紅の花」では、すでにガンで全身を侵されていた。

1995年10月20日、当時NHKが2ヶ月間の密着ドキュメンタリーを制作している。

渥美清67歳。がんに侵されていることは誰にも知らせていない。渥美清がテレビカメラの密着を許したのは前例がなかった。

当時を知るカメラマン(広田亮)が最後の素顔を明かした。

一切プライベートな事を話さない渥美清だったがその時だけはOKしたので、山田洋次はびっくりした。

元松竹の渥美清担当、大西洋さんもドキュメント撮影OKには当時驚いたという。

このドキュメンタリーでは、それまでひた隠しにしてきた生身の渥美清が映しだされていた。

当時のカメラマンは、渥美清がガンであることも知らなかったため「渥美さんがぶっきらぼうに人々と接するこんな映像を撮っていいのだろうか?」と思ったという。

67歳の当時はガンによる体力の限界で医師にも余命を告げられていた。ニコリとも出来ない手も振れない自分だが、映画の中では持てない男を演じなければならない辛さを感じていたという。

病気のことを何も知らないスタッフが「愛想が良くないと思われてるがどうお考えですか?」という問いに、渥美清は「スーパーマンは実際に飛べないもんね、針金で釣ってんだもんね」とにこやかに穏やかに答える。

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次回作の打ち合わせも行われていた

1996年6月27日、実は49作目の打ち合わせも行われていた。渥美清の希望だという。

その時は元気そうだったか元気に振舞っていたと回想する、山田洋次。

打ち合わせの会場では、切符を自動券売機で買おうとしてまごまごしていると後ろに居た若い学生が「おじいさんどこいくの?」と切符を買ってくれたが、その時に寂しい感じがしたと渥美清。

まごつく老人に対して「早くして欲しい」と思う若者に自分がだんだんこの世から爪弾きにされていくのを感じたという。

その話を最後に、渥美清は亡くなった。

山田洋次は渥美清の家族に会ったことが無かった。葬儀の席で初めて家族に会う。全く現実感はなかったという。死んだことにしていつかひょこっと帰ってくるのでは?と思ったという。

渥美清は、消えるようにいなくなりたいという遺言によって葬式をすべて終わらせてから関係者に伝えられた。

今も寅さんを慕ってやってくる観光客は絶えない。

アナザーストーリーズ反響ツイート

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