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yonta64のテレビ番組ブログ

テレビ番組を見ながら興味のある内容を記憶。ガッテン、モヤさま、etc。放送後の反響ツイートなどを紹介しています

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反響要約 NHK ブラタモリ #70「京都・祇園」の聖と俗。江戸時代に四条通北側にあった広大な花街、歴史の痕跡をたどる…【2017年4月15日(金曜日)放送内容】

ブラタモリ #70「京都・祇園

2017年4月15日(土曜日)放送の「ブラタモリ」は京都・祇園をタモさんが探索。江戸時代に四条通の北側に広がっていた広大なお茶屋さんが、大正時代に南側に移転した理由や、完全分業体制の花街システムの成り立ちなどが解き明かされました。

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ブラタモリ番組データ

【放送日時】 2017年4月15日(土曜日)よる7時30分(45分)
【放送局】 NHK総合
【語り】 草彅剛
【出演】 タモリ 近江友里恵(アナウンサー)
【オープニング曲】 「女神」井上陽水
【エンディング曲】
【ロケ地】 京都・祇園
【ロケ日】

京都祇園・花見小路よりロケスタート

タモリと近江友里恵アナが京都祗園・花見小路を訪れた。

近江アナは今回初めての訪問。タモリは何度か訪れたことがあるが、花街(かがい)には来たことがないと言う。

舞妓さん(豆千佳さん)と芸子さん(豆六さん)に”タモ手箱”を手渡される。

今回のテーマは「日本一の花街(かがい)祗園はどうできた?」

ここで、太田磯一さん(祇園町南側地区まちづくり協議会・中華料理店経営)が登場、案内した。

芸子さんと舞妓さんには違いがある。

  • 芸子さん … 経験を積むと芸子さんとなり大人の着物を身に着ける
  • 舞妓さん … 二十歳ぐらいまで、昔の子どもの着物を着ている(振り袖の袖が長く、帯も長い(だらりの帯))

花街(かがい)は、四条通を挟んで、北側と南側にあり、今回タモさんが訪れたのは、南側のエリア。

舞妓さん・芸子さんの職場「お茶屋」を訪問

花街にあるのは「お茶屋」。

お茶を売るお店ではなく芸子さん舞妓さんが接待する場所。一軒一軒許可証が必要になっている。

普段は”一見さんお断り”のお茶屋だが、特別に中に入らせてもらった。

お茶屋には舞台やお座敷がありお酒を飲んだり、舞妓さん、芸子さんの芸を楽しむことが出来る場所になっている。

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寮のような「置屋

お茶屋には普段舞妓さんや芸子さんは住んでいない。

普段は「置屋(おきや)」という寮のような場所に住んでいる。お客さんから呼ばれると置屋から、お茶屋に出勤する仕組みになっていた。

また、髪は専門の髪結いさんに依頼し、一度結うと1週間はこのまま頭を洗うことも出来ないと言う。また寝るときも箱枕で寝るといい、夏場は大変…。

タモリは全くシャンプーをしない主義のため「2週間ぐらいシャンプーしなくても大丈夫だよねぇ!」と笑った。

料理専門「仕出し屋」

花街を支えるお店にはさらに「仕出し屋」がある。仕出し屋はお茶屋専門に料理を届ける役割を担っている。

仕出し屋はお客さんの食べるペースに合わせ約15分間で一品ずつ配達する仕組みになっていた。

このように「お茶屋」「置屋」「仕出し屋」の分業制でサービスは成り立っているという。

四条通の南側エリア

今タモさん一行がいる四条通の南側エリアが、花街になったのは明治から大正時代と実は比較的新しい。

花街になる前は、もともとは「建仁寺(けんにんじ)」の境内だった。

明治に入って「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」により建仁寺の境内が政府に没収されその場所に花街が移転。

元々花街は江戸時代に四条通の両側と北側一帯に広がっていたという。

江戸時代から今も残る「一力亭」へ

建仁寺の境内に移転する前の花街はどこにあったのか?

タモリ一行は、昔の建仁寺の境内の外がわへ。境界線の向こうには「一力亭」があった。

一力亭とは、赤穂浪士を題材にした「仮名手本忠臣蔵」に「祇園一力茶屋」として登場する明治大正以前からある300年以上続く「お茶屋」。

昔は一力亭のあった四条通沿い(+四条通の北側に広がっていた)に花街はあった。

今は江戸時代から残るお茶屋は「一力亭」しか残っていない。

また、もともとはメインの玄関が四条通に面していたのに、現在は四条通の扉は閉鎖して、裏手に玄関を付けなおしている。

八坂神社へ

タモリ一行は八坂神社へ。

ここからは、京都高低差崖会の、梅林秀行さんが案内を担当する。

梅林さんはブラタモリではおなじみの案内人。

八坂神社は京都盆地の縁(へり)にあり、断層崖(だんそうがい)になっている。

二本の他の地域と同様に断層崖という地形を境にして「聖」と「俗」が向かい合っていた。

八坂神社の階段は断層崖に作られている。

八坂神社の鳥居は移動していた!?

ここで京都国立博物館名誉館員の、下坂守さんも加わった。

玄関の階段の直ぐ側に「大正二年十一月、西門を移転改築為す」と書かれた石碑を発見。

実は1912年に京都市電が開通。市電は路面電車だったため四条通を3倍に広げなくてはならなかった。

四条通を広げると、八坂神社の正面がズレたため八坂神社の表門はは大正二年に四条通からまっすぐに見えるように移動させ風景を整えたという。

市電が通ると老若男女行き交うような街に生まれ変わるため、花街が正面にあっては風紀上良くないということで、花街は現在の、四条通南側(かつての建仁寺の境内に)移転したのだ。

大正元年、四条通に面したお茶屋は、営業禁止となり、一力亭も四条通から裏手へと玄関を花見小路側に付け替えることになった。

なんと市電開通が花街を移動させるきっかけになっていた…。

江戸時代は名前が違った「八坂神社」

八坂神社はかつて「祇園社」と呼ばれていた。

平安時代には、八坂神社の境内は広大で今の何倍もあった。このあたりが今も祗園と呼ばれるのはその名残。

八坂神社権禰宜(ごんねぎ)の東條貴史さんが案内。祇園社だった当時から残っているという建物を案内してもらう。

350年前に建てられた八坂神社本殿へテレビ初潜入となる。

「花街」のシステムの始まりは?

「中村楼」の店主、辻雅光さんが案内。

江戸時代始めの中村楼が描かれた蒔絵を見せてもらう。

かつてここは信仰の場であり、娯楽の場も提供していた。

昔は豆腐切りを三味線の音にあわせて若い女が切るパフォーマンスが流行っていた。これを「祇園豆腐」という。

タモリも現在も作られている祇園豆腐を試食、お味噌が香ばしいと気に入った様子。

このように江戸初期、お茶屋が普及する前は分業体制ではなく、一つのお店で料理や芸事などを提供していたと言う。

江戸時代「お茶屋」が急成長した…

タモリ一行は鴨川へ。豊臣秀吉のころ、鴨川はとても川幅があった。

今の川幅になったのは、江戸時代になってから。

1670年に江戸幕府が治水のため鴨川の両岸に堤を築いた。この堤を「寛文新堤(かんぶんしんてい)」という。

www.kyoto-yuka.com

鴨川の両岸は広くなり、また堤防によって洪水の被害も少なくなった。

そしてこの場所には市街地が完成し、更にこの時四条通の北側も急速な花街開発が進んだと言う。

江戸末期には700件のお茶屋が立ち並び、芸子さん&舞妓さんは3000人以上。日本有数の超巨大な花街が出来上がっていった…。

あまりにお茶屋が増えたため、食事などは分業化が進み現在のような花街システムが完成していったと言う。

かつての花街「四条通の北側」へ

江戸時代の花街の中心地、四条通の北側へ。

北側は現在、一般の京都人がお酒を楽しむ繁華街になっている。殆どのお茶屋さんは明治大正に南側に移転したため、お茶屋はポツポツと残る程度だった。

寛文新堤が完成した直後の江戸時代。北側は急ピッチで開発が進んだため、無理やり区画整理した部分がある。

タモリ一行は、今も残るいびつな形の区画を見学。縄手通りと大名屋敷のちょうど中間にある場所は斜めに区画整理して空いた隙間に無理やり建物を埋めていった痕跡がギザギザな道路として残っていた。

(※2017-04-15放送)

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ブラタモリ反響ツイート

次回のブラタモリ「箱根」

次回のブラタモリは箱根。22日(土曜日)よる7時30分。

箱根の火山が生んだ数々の極楽とは?

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